【 第四章 】
−その日は朝から霧雨が降っていた。
暗く静まりかえった邸内に水が空をよぎる音だけが響く。
まるでその静寂を破るように、女のどこか切羽詰った声がどこからか
聞こえてきて
目が覚めた。
途端に慌しい気配が邸内をかける。
部屋の前の廊下を小走りでいく女中をつかまえたが、何事もないと
坦々と告げ、部屋からでないようと念を押して去っていった。
客人としての立場上もあり、この場を動くことはできない。
こんなときでも、あくまでも「部外者」なのだ。
それでもこの静かな邸内で、女の声はわずかに聞こえてくる。
何かを嘆願する声。
子供の泣き声がその声をかき消すように聞こえてくる。
不穏な空気が漂う中、胸の鼓動だけが不安に波打つ。
肌にまとわりつく湿気に耐えるように、きつく目をつむったが
−もう眠ることはできなかった。
朝餉の時間、いつもとは違う女中が膳を置いていく。
その老婆をひきとめ、朝方の出来事について尋ねてみた。
老婆はひどく哀しそうな顔をして畳に目をおとす。
一人の娘が子供を連れて「逃げ出そう」としたのだという。
−逃げる……?
その言葉は奇妙な違和感と共に胸の内を黒く墨をおとしたように
ひろがっていく。
霧雨はその日氷室邸を覆ったまま、全てを白く掠れさせた。
− その夜。
部屋の「外」の廊下に気配を感じ書物におとしていた目をあげた。
ここにきてから、そういったものに敏感になったような気がする。
部屋の障子窓をわずかにあけて覗いてみると、4人の男達が一人の
女を連れだちどこかへ向かっている最中だった。
根拠はどこにもなかったが、その女が朝方の一連の出来事に関与
しているという漠然とした予感があった。
何故自分がその時その後をつけようとなどと思ったのかわからない。
− ただ、ひどく胸騒ぎがした。
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気づかれぬように男達の後をつけていく。
着物の隙間からも夜の冷気が入り込んで、湿気とも汗ともいえぬものが
じっとりとまとわりついてくる。
男達が掲げる松明の灯りのほんのわずかな光をたよりに進む行程。
昼間とは違う様相の氷室邸は、どこかこの世とは思えぬ底知れない
ものが隣の闇の中に潜んでいる気がして、
ひどく自分が不安定な存在に思えてくる。
そんな自分の後ろから忍び寄る闇に捕らわれぬよう
前だけを見ることしかできなかった。
竹林を抜け、男達は深き森の参道をのぼっていく。
鬱蒼と茂る参道の木々には注連縄がはりめぐらされ、松明の灯りの
揺らめきが不気味にそれをうつしだす。
− 鳴神神社。
彼らはそこでようやく歩をとめた。
その木々の幹のひとつに身をよせ様子を伺うと、神社の中から
白装束の男が出てきた。
遠目でもわかるほどの存在感をもった青年
− 氷室家当主だ。
松明の灯りに照らしだされたのはそれだけではない。
氷室家当主はその手に
抜き身の刀をもっていた。
許しを乞いながら泣き叫ぶ女の声を皮ぎりに男達が経を唱える。
生ぬるい風が吹きはじめ、あたりの木々がまるで警鐘のように
葉を揺らして鳴る。鳴神神社が地面の底から這い出そうとしている
「何かを」押さえ込むように音を立てて軋んでいる。
女の悲鳴。読経。松明の灯り。紅い鳥居。白い装束。刀身の妖光。
時が、世界が−全てが止まり
女の首が飛んだ。
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その後のことをよく、覚えていない。
男達が参道をいつ戻っていったのか、女の首がどうなったのか、
− 自分が、どうやって部屋に戻ったのかさえも。
気づけば、翌朝、布団の上で尋常ではない汗をかいていた。
私は、夢を、見ていたのだろうか……。
ふと汗ばむ両掌に目を落とすと、その指先の爪には、
黒く湿った小さな茶色の木片が突き刺さっていた。
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