【 客人の回想序章 】
零異聞
たちこめる霧の中を、逝き彷徨う魂のように蛍が舞う。
まるで黄泉を思わせるこの場所、逢ヶ魔淵の静寂を彩るように
繰り返してはあけることのない夜を哭く水の音が鳴り響いている。
― ずっと考えていた。
何故、彼が―氷室家当主が分家の人間を―自分をこの場所へ招きいれたのか。
閉じていた瞼をゆっくりとあけ、霧の向こうを見据えるように目を細めた。
― その答えがもうすぐわかりそうな気がした。
だが、背後に佇み、動かぬ人がそれを許さないだろう。
― きっと、もう、自分の役目は終わっているのだ。
そのことに何故か胸が疼く。理由のわからない「痛み」に心が軋む。
それを押し隠すように微笑を浮かべ、ゆっくりと振り返り、
「彼」と対峙した。
そこには素顔を決して覚らせぬ面をかぶり、抜き身の日本刀を手にした
氷室家の「鬼」が立っていた。
その研ぎ澄まされた刀身に灯篭の炎が映り揺らめき、妖光を放つ。
水車の軋む音が二人の間を遮るように鳴り、向き合ったまま言葉もなく
どれだけの時がたったのだろうか。
「……何故、逃げない」
―「鬼」が問う。
問われた言葉に射抜かれ、ただ彼を見た。
その隠された本心の向こうにあるものを見透かすように。
逃げようとは思わなかった。彼に背を向けることなど
― できなかった。
ただあるのは、答えの出ない漠然とした想いだけだった。
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地に沈んでいく体。零れ落ちていく命の欠片。誘うように蛍が舞う。
斬られた傷ではなく、何か違うものがひどく傷んでいるような気がした。
それが何かを必死に追い求め、残された時間の短さにもがいた。
逝けぬ理由はただ漠然とし、止まらず廻り続ける音に翻弄される。
そして、氷室家の当主がそんな自分を見下ろしていた。
その手に刀は既になく、ゆっくりと面に手をやり、それをはずす。
鬼の素顔は、掠れていく目ではもう、よく、見えなかった。
どこからか吹いてくる風が体の上を通り過ぎ−
雫と共に言葉が落ちてきた。
ああ…………。
言葉にできない呻きが空洞になりつつある内の中で反芻される。
何故、なぜもっと、もっと早く− 気づかなかったのだろう。
胸が痛みに軋む。
暗い地の向こうから怨嗟の呻きと共に無数の手が伸びはじめる。
逝こうとする魂を捕らえこの地に縛りつける、氷室家の呪いが身を蝕む。
あけることのない夜。あけることのない闇。
−「鬼」の心が流す雫に誰が気づくというのだろう。
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